レポート
2021-06-10
[その5]:中央区の見どころ
さて、前述のとおり、中央区は極めて魅力にあふれた地域です。天神を中心とした大都会の反面、黒田藩の城下町として栄えただけあり、中世から近世、近代にかけての遺蹟、遺構、遺物が数多く残っています。
歴史のある寺社仏閣をはじめ、人々の暮らしや営みを今に伝える祭事、民間信仰の数々。また、筑前勤皇党の志士たちの墓標。そして、昨今、その歴史観が見直されている玄洋社など、まさに見どころ満載です。
その全てを紹介し尽くすことはできませんので、ここでは幕末から現代にかけて、黒田藩の著名な学者、文化人、筑前勤皇党の志士たちの足跡と、また、面白い民間信仰について紹介します。
(1)黒田藩の学者たち
①「亀井南冥」書の額と墓碑
「浄満寺」亀井南冥は江戸中期の終わりに活躍した黒田藩の儒医で、同じ藩の儒医・貝原益軒と同じく、医師としてよりも儒学者として有名です。亀門学の祖であり、門下に広瀬淡窓(大隈言
道の師)らがいます。
「浄満寺」
当時、黒田藩には「甘棠館」と「修猷館」の二つの藩校があり、南冥は「甘棠館」の学長を務めていました。志賀島で発見された金印に対し、南冥は素早く「後漢書東夷伝」を引用してその由来を説明、これに「善龍寺」より南冥の名を高めました。しかし、その後失脚、甘棠館は焼失、廃校になりました。
亀井南冥の墓は中央区地行の「浄満寺」にあり、中央区唐人町の「善龍寺」山門には南冥直筆の額が掲げられています。
②「貝原益軒」の墓と碑
「金龍寺」貝原益軒坐像貝原益軒は、藩費による京都留学で本草学や朱子学等を学びました。帰藩後、藩内での朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応をまかされ、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担いました。
藩命により「黒田家譜」を編纂。また、藩内をくまなく歩き回り「筑前国続風土記」を編纂したことで有名。墓と坐像は、中央区今川の「金龍寺」にあります。
(2)筑前勤皇党の志士たち
昨年(2010年)は、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の影響もあり、空前の〝龍馬ブーム〟でした。この「龍馬伝」で、龍馬がお風呂の中からお竜に語りかけ、「薩摩、太宰府、下関に行ってきた」というシーンがありました(8月8日放映)。
史実、いわゆる「五卿落ち」の一人、東久世通禧の日記には、1865(慶應元)年5月25日、坂本龍馬が太宰府に面会に来たことが記されています。龍馬は太宰府にも来ていたんですね。
①月形洗蔵の墓碑
「少林寺」月形の墓碑さて、坂本龍馬は「薩長同盟の立役者」と言われていますが、実は、「薩長同盟の起草文」、いわゆる原案を考案したのは、筑前勤皇党・福岡藩士の月形洗蔵です。
月形は、西郷隆盛と筑前で会い、薩長和解を説いています。また、長州の高杉晋作が筑前に来た時にも西郷と密会させ、その後も下関で再度、西郷と高杉を密会させています。月形の「薩長同盟」の想いは西郷、高杉に直接伝えられ、月形の書いた「薩長同盟の起草文」は、中岡慎太郎を通じ、龍馬に伝わったとされています。
しかし、幕府の長州再征に際して福岡藩は藩論一変、佐幕派の専制に帰し、1865(慶応元)年6月、月形は加藤司書ら勤王派藩士と共に捕らえられ、処刑(斬首)されました。「乙丑の変」です。
無念、月形は太政官布告‐維新を見ることなく、38歳でこの世を去ったのです。
②平野國臣を祭る平野神社
「平野神社」平野國臣は、福岡藩の勤王志士です。31歳で脱藩して上京、尊王倒幕運動に参加します。九州各地の志士を訪ね、尊王倒幕活動への結集を図ります。
35歳のときに、当時の福岡藩11代藩主・黒田長溥に尊王を諫言し、唐人町の浜側にあった「枡木屋の獄」に投獄されますが、翌年出獄。「生野の変」に参加するも、破れ、再び京都六角牢に投獄され、処刑されます。
1864(元治元年)年、明治維新のわずか4年前に、日本の夜明けに身命を尽くした國臣は37歳で生涯を終えます。
③加藤司書の碑
博多区祇園、「天福寺」跡の碑加藤司書も筑前勤王党の志士です。月形洗蔵らと尊王攘夷に動くものの、藩主・黒田長溥の不興をかい、職を追われます。藩政で力を急速に失った勤王派は、長溥を犬鳴山別館に押し込め、子の黒田長知を立てて勤王派の総決起を図ろうとしますが、計画は露見し、逮捕されます。加藤司書は、最後は罪を得て家に禁固され、博多の「天福寺」で自刃を命ぜられます。享年36歳でした。
④野村望東尼碑と平尾山荘
中央区平尾「平尾山荘」と望東尼の碑野村望東尼は勤皇歌人ともいわれ、平尾山荘(現中央区平尾に復元)は勤皇派のアジトにもなっていました。高杉晋作は、1864(元治元)年、長州藩の保守派に命を狙われたため、長州を脱出。同年11月に野村望東尼の平尾山荘に身を隠し、難を逃れます。
しかし、望東尼は志士たちを庇護した罪で福岡藩に捉えられ、姫島(現、糸島市)に流されます。そこで、高杉は望東尼を救出し、下関に迎え入れます。
望東尼は、病に付した高杉を精魂込めて看病し、最期を看取ります。その後、62歳で没します。
⑤「大隈言道」の墓と五つの碑
「香正寺」大隈言道の墓碑維新の勤皇歌人・野村望東尼が弟子入りしたのが、大隈言道です。
言道は、江戸時代後期の歌人であり、実情実景を直語(ただこと)で詠み、それを終生徹底的に実践するなど、後世の歌人に多くの影響を与えました。維新の志士・平野國臣、高杉晋作とも交友がありました。
墓は中央区薬院の「香正寺」にあり、また、中央区今泉公園には言道の「五つの碑」があります。
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