レポート

2017-09-01

魅力満載、見どころ満載 「原中的中央区の歩き方」

[その5]:中央区の見どころ

(3)民間信仰

中央区は、もと黒田藩の城下町、いわばお膝元です。いまではビルが林立する大都市に様変わりしていますが、各地に昔ながらの風習、お祭り、遺物などが数多く残っており、いまでも地域の方々が大切にこの伝統を守っています。今回は、この中から7つ、ご紹介します。

①「圓徳寺」のおにぎり地蔵

その5_中央区の見どころ_09.jpg「圓徳寺」おにぎり地蔵1732(享保17)年、西日本一帯はイナゴの一大発生により、未曾有の凶作、飢饉に見舞われました。黒田藩内も飢餓する者が多数出ました。

地行地区も大きな被害をうけ、飢饉のため餓死者が村の半分に及びました。これを悼み中央区地行「圓徳寺」では「おにぎり地蔵」を建立、供養を続けています。毎年、8月24日にお祭りが行われています。

②火消の守り「八兵衛地蔵」

その5_中央区の見どころ_10.jpg「成道寺」の「八兵衛地蔵尊」中央区唐人町に「成道寺」という浄土宗のお寺があります。この境内に「八兵衛地蔵尊」という地蔵が立っています。

元禄時代、ある町で火事が起こり唐人町と須崎町の火消したちの間で火事場の争いから喧嘩が始まり、須崎町に数人の死者が出てしまいました。

唐人町からは、下手人を奉行所に差し出さなければならなくなりました。この話を成道寺の近くに住んでいた肥後の浪人、森八兵衛が聞きました。八兵衛は以前、大病を患い、隣人に手厚い看護を受けて九死に一生を得たことを非常に感謝しており、自ら身代わりとして申し出ました。両町とも切羽詰まった状況だったことと、八兵衛の意志が強かったことなどから八兵衛に刑が執行されました。

町の人々はその犠牲心を尊び、その供養のために建てたのが八兵衛地蔵です。今では消防の守り地蔵と崇められ、毎年8月23日の施餓鬼会(せがきえ)にはお祭りが行われ、多くの消防団が纏を持って参詣に訪れます。

「施餓鬼会とは、各宗派を通じて行われる伝統的仏教行事の一つです。仏教語で餓鬼とは、生前に嫉妬深かったり、物惜しみやむさぼる行為をしたものが赴くところとされています。また、私共人間の心に生じるむさぼりをあらわしているともいわれています。施餓鬼会はその餓鬼にたいして、お釈迦さまのお教えくださった法の力で飲食を与え、その功徳により餓鬼だけでなく、ご先祖さまや広く無縁の諸精霊を供養し、また同時に皆さま自身の福徳延寿を願う法要です。」

③「味噌喰い地蔵」

その5_中央区の見どころ_11.jpg「味噌喰い地蔵」福岡藩は、城下が飢饉のとき、荒戸に粥場を設けました。南部(現南区や中央区の南部)から粥場まで、この丘を越えて、城下に至るのが最短コースだったのですが、飢え、衰えた人たちはこの丘を越えられずに、丘の上で命をなくす人が多数出ました。そのため、里人たちはここで命を落とした人たちを供養するため、毎年8月24日にミソや握り飯などをそなえて施餓鬼供養をずっと行っていました。

その後、飢饉から75回忌を迎えた1808(文化5)年、「大長寺」のご住職が施餓鬼供養を行い、その際にこの地に無縁塔を建て、地蔵様を据えました。

それがあるとき、大願を願って里人が地蔵尊の顔に味噌を塗り付けて祈願したところ、なんと成就しました。それから、この地蔵様に祈願する人は、顔に味噌を塗り付けるようになり、人々は何時しか「味噌喰い地蔵」と呼ぶようになりました。今でも、8月24日には「味噌喰い地蔵」祭りがあります。

④黒門の「馬頭観音様」

その5_中央区の見どころ_12.jpg中央区黒門 「馬頭観音様」黒田藩主御馬廻役であった梶原太夫は、自らの屋敷に馬頭観音の「祠堂」を立てました。その後、1783(天明3)年、黒田藩主から授かった馬が焼死するという事故が起き、その馬の霊を祭るために右記の「祠堂」に参詣するようになりました。ところが、あまりに参詣する者が増えたため、町の人たちが屋敷
から現在の場所に移し、御堂の世話を引き継ぎました。

今日でも、毎年8月23〜24日の施餓鬼会に合わせ、お祭りが行われています。

⑤「水導観世音菩薩」

その5_中央区の見どころ_13.jpg中央区黒門「水導観世音菩薩」黒門に、「水導観世音菩薩」(みずひきかんぜおんぼさつ)といわれる仏像が祀られた観音堂が立っています。この観音堂に祀られた水導観世音菩薩像は、福岡藩初代藩主・黒田長政が福岡城を築城の際、濠を浚渫していた時に出てきた霊仏といわれ、清水の湧く井戸をお告げになったことから「水導観音」の名が付いたそうです。

その後、1650(慶安3)年、三代藩主・光之から家臣の矢野氏がこの像をもらい受けたことを機に、新その5_中央区の見どころ_14.jpg中央区黒門「水導観世音菩薩」大工町(現在の黒門)の工匠たちが仏堂を建立し、町内安全を祈願したのが黒門水導観世音堂の始まりといわれています。以来350余年、町内住民の悪火悪疫除けの守護仏として、代々受け継がれてきています。

特に、1798(寛政10)年、町が壊滅するほどの唐人町大火のとき、また近年では福岡大空襲の際にも、この地区はその難を免れたといわれています。今年は8月17日にお祭りが開催されました。

⑥「安国寺」の飴買い幽霊

その5_中央区の見どころ_15.jpg「安国寺」の墓碑中央区天神3丁目にある「安国寺」の境内には「岩松院殿禅室妙悦大姉」と彫られた女性の墓が建っています。そして、その横には、母にしがみつくように立っている墓には「童女」と刻まれています。

この墓の由来ですが、毎晩、丑三つ時になると飴屋の表戸をトントンと叩き、若い女が飴を買いに来ます。不審に思った飴屋がある日、女の後をつけていくと、「安国寺」の中に消えていきました。境内には新しい卒塔婆が立っていて、地中から赤ん坊の泣き声がします。寺の住職と墓を掘ってみると、亡くなった母親から生まれた赤ん坊がいました。乳も出ず、死ぬに死にきれぬ母親が幽霊となり、飴で我が子を育てようとしたのです。墓から取り出された赤ん坊も、日を経ずして亡くなりました。寺の記録によると1679(延宝7)年のことです。

⑦城内の「お綱さん話し」

その5_中央区の見どころ_16.jpg中央区城内「東御門跡」中央区城内、福岡城二の丸跡に入る所に、「東御門跡」があります。昔、この東御門は「お綱門」と呼ばれていました。柱に触れただけで熱病に冒されたり、夜中にうなされたりするといわれたその門には、恐ろしくも哀れな話が語り伝えられています。

寛永の頃、福岡藩二代藩主・黒田忠之は参勤交代の帰りに大阪で遊び、采女(うねめ)という芸者を連れ帰りました。しかし、家老にいさめられて、お側役の浅野四郎左衛門に預けることに。浅野にはお綱といその5_中央区の見どころ_17.jpg城内にある「案内板」う妻と幼い二人の子どもがいましたが、采女に心を奪われた浅野は、妻子を顧みなくなってしまいました。簀子町の本宅に采女を住まわせ、お綱と子どもたちを箱崎の下屋敷に別居させて、始めはしていた月々の仕送りもだんだんとしなくなりました。

貧しい生活にやきもきしたお綱は「せめて娘の四歳のひな祭りには何か支度を」と本宅に下男を送ります。ところが、出てきた采女にけんもほろろに追い返され、下男はお綱に申し訳ないと思い、箱崎松原で自害しました。

これを知って、お綱は狂乱します。二人の愛児を刺し殺し、なぎなたを携え浅野家に走りますが、夫は登城していて留守。逆に、屋敷にいた浪人の明石彦五郎に切りつけられてしまいました。それでもせめて一太刀と、お綱は髪を振り乱し、血に染まった体をなぎなたで支えながら、夫のいるお城へ。しかし、城門にたどり着くと同時に、門に手をかけたまま息絶えたといいます。その門がお綱門と呼ばれ、後に、浅野の本宅跡に建てられた「長宮院」に移されました。

「長宮院」は福岡大空襲で消失し、その跡地は現在、家庭裁判所になっています。

以上①〜⑦ 参照:福岡市「中央区みどころ情報発信館」


6.おわりに

中央区の見どころはまだまだ沢山あります。寺社、史跡、伝統の祭り、人物、歴史の足跡など、ページに暇がないほどです。

この続きは、また、「原中的中央区の歩き方」として連載いたします。