「ミャンマー連邦共和国」視察報告 その2

(2) 歴史概要

  1. 1752年にミャンマーを統一したビルマ族「コンバウン王朝」が誕生。
  2. イギリスとの戦争(「英緬戦争」)で敗北、1885年にコンバウン王朝は滅亡。1886年、イギリス領インドに併合。英国によって「ビルマ」と呼ばれるようになる。
  3. 1937年、インドから独立してイギリスの自治領(植民地)となる。
  4. 1942年、アウンサン(ビルマの独立運動家、「ビルマ建国の父」として国民に広く親しまれいる。アウンサンスーチーさんの父)が「ビルマ独立義勇軍」を率い、旧日本軍とともにイギリスを駆逐。ミャンマー国軍は、この1942年を建国年としている。
  5. 1947年7月19日、アウンサン将軍が暗殺される。
  6. 1948年、イギリス連邦を離脱、「ビルマ連邦」として独立。しかし、国民党軍、民族勢力(少数民族)、ビルマ共産党、などの勢力争いによる内紛が続く。こうした内紛のなかで国軍が徐々に力を付け、この間隙を縫う形で1958年にネ・ウィン将軍が実権を掌握。1962年に軍事クーデターによりミャンマー政権‐軍事政権が樹立する。
  7. 1974年に「ビルマ連邦社会主義共和国憲法」が制定され、ネ・ウィン将軍が初代大統領に就任。軍事独裁体制が続くものの、経済政策の失敗により国内経済は深刻な財政危機、インフレに見舞われる。
  8. 1988年、ネ・ウィン政権を離反した軍部によって、再度、軍事クーデターが起こり、新軍事政権ができる。「ビルマ連邦」と改称。新軍事政権は「総選挙」を政権公約としたため、国政選挙に向けて多くの政党ができる。アウンサンスーチーさんらによる「国民民主連盟(NLD)」も、このときに結党される。
  9. 1989年、総選挙直前にアウンサンスーチーさんが自宅に軟禁される。以来、長期軟禁と開放を繰り返すことになる。
  10. 1990年5月、ミャンマー総選挙が行われる。結果は、NLDと民族政党が圧勝。危機を抱いた軍事政権は選挙を無効として、議会の招集拒否、民主化勢力の弾圧を強化する。以後、軍事政権が続いている。
  11. 2005年11月、ミャンマー軍事政権は突如、首都をヤンゴンの北約300kmに位置するネピドー(現地の言葉で「王様の場所」)に移転すると公表し、首都機能移転を実行。軍事政権によると、「遷都の理由は、首都をミャンマーの国の中心に移した」と言っている。しかし、実際は、軍事政権の〝軍事戦略上の判断〟で行われたもので、すなわち海岸線から近いヤンゴンだと首都陥落し易いため、内陸地に移したと言われている。
  12. 2007年10月、前首相の死去に伴い、軍出身のティン・セイン氏(Thein Sein)が首相に就任。
  13. 2008年、ティン・セイン首相は新憲法案を定めるための国民投票を実施、民主化が進み始める。
  14. 2010年10月、新しい国旗がつくられる。同年11月、新憲法に基づく総選挙が実施される。アウンサンスーチーさんの自宅軟禁も解かれる。
  15. 2011年3月、ティン・セイン首相が大統領に就任。改革開放路線が本格的に進められることになる。
  16. 2012年4月21日〜24日、テイン・セイン・ミャンマー大統領の訪日。野田首相は日本の円借款ミャンマー・タイ_03.png(写真提供:内閣広報室) 3,000億円の放棄を決めた。内容は、2002年に重債務国への債権放棄策として決めていたものの、軍事政権下その手続きが止まっていた1,274億円をまずカットする。更に、円借款の返済が滞っていたことによる遅延損害金や金利1,761億円もカット。ただし、条件として、1年後に民主化の進み具合を見極めたうえで免除手続きに入るというものである。

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