Ⅱ.視察報告:11月18日(月)

3.大野城市「水城跡」(一部、大野城市HPより引用)

次の視察場所は、大野城市「水城跡」です。

水城跡(大野城HPより).jpg水城跡(大野城HPより)

水城跡公園.jpg水城跡公園

(1)水城跡の概要

①水城の概要
「水城(みずき)」とは、外敵から「太宰府政庁」を守るための堤防のことで、大城山麓(おおきさんろく)から下大利(しもおおり)までの全長約1.2キロメートル、幅80メートル、高さ13メートルの人工の盛土による土塁のことです。

7世紀の時代、当時は博多湾から御笠川を遡って、太宰府まで船で往来できたそうです。
したがって、博多湾から遡上してくる武装軍・船団から太宰府を守るためにも大きな堤防が必要だったのです。ちなみに、博多側には幅60メートルの濠もあったそうです。  

②水城の歴史
水城は663年「白村江の戦い」(はくそんこう(昔の教科書では「はくすきのえのたたい」といっていた))の戦いの翌年に造られました。白村江とは朝鮮半島の地名です。

7世紀初めから半ばにかけて、朝鮮半島では高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)の3つの国がありました。また、中国を統一した唐(とう)は朝鮮半島にまで支配の手を延ばそうとしていました。

朝鮮半島を中心とする東アジアは一触即発の状態にあり、海を隔てた「倭(わ:日本)=大和朝廷」もこの緊張関係と無関係ではありませんでした。

660年、唐は新羅と手を結び、百済に攻め入りました。同年7月、百済王は捕らえられ百済は滅び、百済の遺臣(いしん)は倭に百済の滅亡を伝えるとともに、救援軍の派遣を要請してきました。

水城の歴史.jpg(大野城HPより)倭=大和朝廷は百済の遺臣の要請に応え、百済への派兵を2回行いました。
1次軍は661年に海を渡りましたが、大きな戦果は得られませんでした。2次軍は663年の2万7千人から成る大部隊で、兵士の動員は西日本だけでなく、東日本にも及び、国家的な戦時体制が敷かれました。

百済救援軍(2次軍)は8月、錦江河口の白村江で、唐・新羅の連合軍と衝突します。戦闘は4度にわたり繰り返され、この戦いで倭の水軍は大敗北をしてしまいました。これが「白村江の戦い」です。 その後、倭の軍は百済の亡命貴族を伴い、百済を退却しました。

「白村江の戦い」で敗退した後、大和朝廷は朝鮮半島における足がかりを失い、また、唐または新羅が倭に攻めてくるかもしれないという危ない状況に陥りました。

そこで、大和朝廷は百済から逃れてきた亡命者の技術をかり、様々な防衛体制を整えることに乗り出します。水城は、そのひとつです。

③水城の発掘調査
水城は、大野城市・教育委員会によって、詳細な発掘調査が行われています。また、明治時代、国鉄の線路を通すために水城を一部壊したときの写真が残っており、そうした資料も元に、水城の解析が進んでいます。

水城には東・西に2ヶ所の門があり、発掘調査も進んでいます。東門では門の礎石や木樋(もくひ)が見つかっています。また、西門は発掘調査が行なわれ立派な門であったことが分かっています。そして、当時の外交の拠点となっていた「鴻臚館」へとまっすぐに続く官道の跡も見つかっています。

水城の発掘調査.jpg(大野城HPより)水城を地盤工学の視点からみると、当時のハイテク技術を駆使して造られています。 堤防は幅80メートルの広い壇の上に築かれていました。博多側には幅10メートルほどの細長い“テラス”があります。このテラスは濠を渡ってきた後の休憩所となるなど、敵兵にとって好都合な場所になっていたと考えられますが、堤防の土が流れ落ちないための押さえの盛土だったのではないかとも考えられています。

また、堤防の基底部の真下には樹木の枝葉が敷きつめられていたことも分かっています。 
これは「敷粗朶工法(しきそだこうほう)」と呼ばれるもので、もともとゆるい地盤を強化するために施されたものです。この敷粗朶の上下では土質が全く異なることも判っています。

(1)感想

当時は、いまのような大型重機、クレーンやトラックなどはあるはずもありません。しかし、この水城はわずか2年で造られたといわれています。

水城や大野城の築城など、これほど大規模な防御の築造を、すべて手作業で行なったことに驚かされます。いったい何万人の労働者が駆り出されたのか、想像もつきません。

更に、当時の土木技術の高さにも驚かされます。1,300年後の今日、堤防は崩れることもなく、堅牢な要塞として威容を誇っています。まさに、驚愕の極みです。

現代を生きる我々として、こうした過去の人々の営みに想いを馳せつつ、重要な遺跡をこれからもしっかりと後世につないでいかなければならないと思いました。

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