「ラオス人民民主共和国」視察報告 その3

Ⅵ.経済協力

1.我が国のODA実績(援助実績)

ラオスに対する経済協力は、1958年10月に行われた日本・ラオス間の経済及び技術協力協定の署名に始まる。
無償資金協力については、主に運輸部門を中心とするインフラ整備、教育・保健等の社会開発、農業・農村開発等の支援を行ってきた。技術協力については、人材育成、社会基盤整備、農業・農村開発、保健医療、教育分野を中心として協力を実施してきており、円借款については、電力・運輸分野を中心としたインフラ整備及び財政支援を行ってきている。我が国は1991年以来、ラオスにおける二国間援助では第1位の援助国である。

援助実績 (単位:億円)
年度

円借款 (有償資金協力) 円借款 (無償資金協力) 技術協力
2006
5.00(0.50) 43.38
26.97
2007 5.00 51.79 24.22
2008 - 38.97 28.59
 2009 15.00   38.81 34.75 
2010   - 31.11   27.75
累計総額 189.30 1,265.85 540.37


(日本の援助実績は、有償資金協力、無償資金協力、技術協力いずれも2010年度まで)

2.主要援助国

(1)日本、(2)オーストラリア、(3)韓国、(4)ドイツ、(5)タイ
  (2010年、OECD/DAC)
  (以下、Wikipediaより引用)

IMFによると、2011年のラオスのGDPは78億ドルであり、鳥取県のおよそ3分の1の経済規模である。国際連合による基準に基づき、後発開発途上国と位置づけられている。2011年にアジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は国民の60%を超える412万人と推定されている。

1975年12月にラオス人民民主共和国が樹立され、急速な社会主義化を行ったものの、タイからの国境封鎖や、1975年と1976年の旱魃などにより、激しいインフレと農産物・日用品の不足を引き起こし、1979年には社会主義建設のスピードが緩和された。

1983年に再び社会主義化を目指すが、ソ連のペレストロイカの動きと呼応して1986年には市場原理の導入、対外経済開放を基本とする新経済メカニズムが導入された。

この間、ソ連やベトナムを中心とする東側諸国からの多大な援助に依存する経済構造であった。そのため、1989年から1991年にかけて東欧諸国で起こった共産政権の瓦解は、ラオスにとっても危機であった。この時期に価格の自由化を行ったことによって、激しいインフレと通貨キープが大幅に下落するなど経済は混乱した。

政府はIMFのアドバイスのもと、経済引き締め政策を実施した。また、西側先進国との関係を改善し、国際機関や西側先進国からの援助が増大した結果、1992年には経済が安定した。

1997年7月に隣国タイで始まったアジア通貨危機はラオスにも大きな影響を与え、キープは対ドルだけでなく、対バーツでも大幅に減価した。

国内ではタイバーツが自国通貨のキープと同じように流通し、バーツ経済圏に取り込まれている。米ドルも通用するので、ホテルやレストランから市場や街の雑貨屋まで、この3つのどの通貨でも支払いができる。中国国境近くでは、人民元も通用する。

1997年にルアンパバーンの旧市街が、2001年にはチャンパサック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺産群がそれぞれ世界遺産に公式登録されたほか、政府が1999年から2000年にかけてをラオス観光年として観光産業の育成に努力した結果、観光産業が急速に発達した。

観光のほか、国土の約半分を占める森林から得られる木材、ナムグム・ダムを始めとする水力発電の隣国タイへの売電、対外援助などが主な外貨源となっている。この中でも特に水力発電によってラオスは東南アジアのバッテリーと呼ばれている。

主要産業は農業であり、人口の78%が従事しGDPの41%を占める。

海外からの援助や投資により、2008年には7.8%の経済成長を実現している。とりわけ、隣の大国である中国の進出は目覚ましく、官民挙げて中国から業者や労働者がラオスに流入している。2007年には、ビエンチャンに中国系の店舗が集まるショッピングモールが出来た。また、首都には中国が建設した公園が完成し、ダム工事など主に日本が行ってきたインフラ整備にも進出している。

他にも、ラオスが主催する東南アジア・スポーツ大会のメインスタジアムも、中国政府系金融機関の約72億円の援助により着工・完成するなど、ラオス国民の間には中国に対する好感度が広がっている。

ラオスに中国が進出する理由は、メコン川地域に豊富に眠っているとされるボーキサイトやカリウムといった資源を獲得するためだと言われている。


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