「ラオス人民民主共和国」視察報告 その5
Ⅸ.視察報告
1.1月30日:ルアンパバン視察
ラオスの古都-観光都市、1995年に町全体がユネスコの世界遺産に登録
(1)Talat Phosy Market
Talat Phosy Marketこのマーケットはルアンパバーン市立、ルアンパバーンで一番大きい、いわばメイン・マーケットです。
野菜や魚、肉、穀物、乾物、調味料をはじめとする食料品から、衣類、靴、文具、家具、電化製品、電気工具、バイク部品、雑貨、農機具など、日用品はなんでも揃う地域のメイン・マーケットです。
午前11時くらいに訪れたのですが、駐車場にはバイク、自家用車に加え、「ツクツク(いわば現地のタクシー)」も並び、たいへん賑わっていました。
ラオスは国連が「最貧国」とする48カ国のうちの1つです。
1973年にラオス和平協定成立、1975年にラオス人民民主共和国が誕生し、その後、近代化が図られています。政権は、ラオス人民革命党の(一党)主導による社会主義政権ですが、1986年よりチンタナカーン・マイ経済政策に移行し、市場経済システムが導入されました。
市場経済システムが導入されて、まだ30年ほどしかたっておらず、経済成長はこれからの国というイメージがありました。事実、ラオスの2009年の1人当たりGDP(国内総生産)は940ドルで、いち早く自由主義経済を導入したベトナム、タイ、カンボジアと比べても、大幅に下回っています(近年、経済的にも急成長し、国民一人当たりのGDPも伸びているタイは3,893ドル、マレーシアは7,030ドル)。
世界保健機関(WHO)が2011年5月に発表した国民総所得(GNI)ランキング・国別順位では、ラオスはWHO加盟国193カ国中、121位となっています。
(2) 「デッカンパ学校」(HONG HIEN DECK KHAM PHAM SCOOL)
ルアンパバーン視察の2ヶ所目は、ルアンパバンン中心部より車で30分ほどのところにある孤児の学校「デッカンパ学校」でした。
この学校は、ルアンパバン市内や周辺の村落の孤児(小学生から高 校生)を集め、教育と生活支援を学校の玄関行っています。
敷地内には校舎と寄宿舎が併設されており、それぞれの学年(小学生、中学生、高校生)に応じて教室と寄宿舎が分けられています。
この施設は、1985年に米国の援助で建設されました。そして、日本からは「JICA」が校舎や寄宿舎の電気系統の配線整備を行い、併せて2015年度まで電気代を援助しています。
現在、ルアンパバン市内(12市)から孤児が集められ、小学生571名をはじめ1,000人近い小中高生が共同生活しています。
カムセン校長当日は、カムセン校長から話を伺いました。
ここにいる孤児たちの多くは、両親が病気や事故で死亡し、引き取り手のいない子どもたちです。
ラオスは国土のほとんどが山岳地帯であり、多くの村落(ラオスの自治の基礎単位となっている)はこうした山岳地帯にあります。
そのため、マラリアやデング熱などの病気をはじめ、事故で死亡する人たちは、いまでも少なくありません。
また、医療体制、とくに周産期医療が未整備のため、乳幼児死亡率は高い。なおかつ、出産は村はずれの(山林にある)小屋で、村の産婆さんによる助産で出産するということで、出産後の医療ケアができないため、子どもを産んで死亡する女性も多いということです。
ラオスにおける妊産婦死亡率は10万人中580人(2008年)であり、新生児死亡率は1,000人中22人(2011年)、5歳未満児死亡率は1,000人中46人と高率です。
更に、貧困のために両親と離れ離れになる子どもたちも少なくありません。いわゆる「捨て子」です。孤児の学校では、こうした子どもたちを受け入れ、教育と生活支援をしています。
こうしたことから、ラオス国内では孤児の数は比較的多く、国内の12県それぞれにこうした孤児の学校・寄宿舎があるそうです。しかし、それでも全てを受け入れきれず、施設の充実は今後の課題ということでした。
ちなみに、ラオスの学制は、小学校5年間、中学4年間、高校3年間の12年制となっていますが、小学校5年間だけが義務教育です。農山村部においては、学校数も、教員の数も少なく、教育環境はまだまだ立ち遅れています。
義務教育終了後、貧困、家庭環境、住んでいる地域が山岳地であることなどから高等教育に進めず、学校教育からドロップアウトする子どもも多くいます。
教育環境の整備は、ラオスの今後の発展に向けた大きな課題といえます。
ラオス国内で読書推進活動や、子どもたちの「居場所」を作る活動をしている「特定非営利法人『ラオスのこども』」によれば、ラオスではフランスの植民地時代のラオス語軽視の教育政策やヴェトナム戦争の影響による経済の疲弊、山岳地形、多民族国家であることなどから、歴史的、経済的、地理的、様々な要因で子どもたちの教育環境の整備が遅れています。また、口承文化の伝統が強く、文字文化が発達してこなかったため、読書が習慣化されていないということです。
多くの地域では、家庭にはもちろん町にも書店や図書館がないため、子どもたちが図書を通じて文字に親しむ機会や習慣はほとんどないそうです。したがって、小学校に入学して初めて文字を学習するという子どもが多いのが現状のようです。
また、教科書が生徒1人に1冊ずつ行き届いている学校は、ラオス全国平均で10%程度しかありません(2004現在)。多くの学校では複数の生徒に対して1冊しか教科書がなく、地域によっては教員しか教科書を持っていないという学校も珍しくはないそうです。
このような状況の中で、それまで全く文字に接していなかった子どもたちにとって、学校の授業の中だけで、文字を習得することは容易なことではありません。
そのため、文字の習得につまずくと、子どもたちは進級試験に合格できず落第してしまいます(ラオスは小学校でも進級試験制度を取っており、不合格となると同じ学年をやり直す)。
ラオス教育省統計によると小学1年生の落第率は30〜40%となっており、他の学年が10%〜20%なのに比べて極端に高い状況です。
落第した子どもたちの中には、そのまま学校をやめてしまう子もいます(ドロップアウト)。子どもたちの文字の習得の遅れは、ラオスの基礎教育普及の大きな壁となっています。
(資料は、特定非営利法人「ラオスのこども」ホームページより http://homepage2.nifty.com/aspbtokyo/index.htm)
(3) 仏教学校「ホンヒュンソン学校」(Hong Hien Song Scool)
寺院本殿ここは、政府機関が主宰する仏教学校です。寺院が運営をしていますが、予算は政府から出されています。
ラオスでは、公表では国民の90%は仏教徒となっています。低地に住むラオ民族の大半と、ルー族、プゥアン族、プータイ族、タイカオ族など、高地ラオの民族は仏教信者といわれています。
しかし、実際には国民の約30%はアミニズムで、明確な経典や教組といったものを持っているわけではなく、太陽や月を崇め、山、川、樹木、岩石にそれぞれ神が宿り、祖先や死んだ者の魂は天に召して、今を生きる者たちの守り神となっているという、原始宗教、祖霊信仰、自然崇拝です。
寺院ラオスの仏教は、仏陀(ブッダ:釈迦)本来の考えを踏襲した上座部仏教(テラワーダ仏教)で、礼拝ではなく個人の瞑想に力点を置いています。したがって、仏像崇拝や神秘的な儀式を幅広く説く日本の大乗仏教とは大きく異なっています。
現在、この仏教学校では12歳から19歳までの1,180人が学んでいます。
学校の中学生(僧侶)彼らの実家の多くが貧困家庭で、両親も子どもを中学や高等に通わせるより、家族を支える働き手と考えており、多くの子どもたちは小学校を出たら働かされます。
また、自分の村に小学校まであったが、中学校や高校がなかったので、中学の勉強、高校に進学するため、寺院で僧侶の生活をしながら勉強しているという子たちも多くいます。
いずれにせよ、家からの仕送りができない子どもたちがほとんどで、それでも勉強したいということで、寺院の学校に入り、僧侶の修行をしながら勉強をしているというのが実状です。
しかし、誰でも仏教(寺院)学校に入れるわけではなく、まず出身の村に、小学校または中学校卒業後に仏教学校へ進学したいという願いを自ら出して、村からの推薦を得ることが必要です。
その後、希望する仏教学校=寺院を訪れ、その門を叩きます。彼らは、主人となる寺院の住職により面接=試験を受け、合格した者だけが入学できます。
そこで「5年間または、10年間この寺院で仏教を学び、仏事に貢献するか」を問われます。それを自ら受け入れることで、仏教学校への入学=寺院での生活を許されます。
入学後、彼らは髪や眉をすべて剃り落とし、日々の食事を得るため托鉢の修行から始めます。
女性に触れることは禁止されています。
彼らが身に付けているオレンジ色の僧侶服は、いわば彼らの制服ともいえるもので、寺院から支給されるが、自分でも購入することができます。
基本的に俗人とはあまり交流を持たず、僧侶同士か、元僧侶だった者と付き合うということです。酒を飲むことは禁止されているが、タバコは禁止されていないため、喫煙している僧侶も多く見かけます。
ソンタヤ副学長(中央)これはどこの仏教学校も同じような悩みのようですが、予算不足のため、施設整備が十分でなく、教室も不足しており、生徒たちを午前と午後に分けて授業を行うなど、十分な勉強時間が確保できないということです。また、教材なども不足しており、決して恵まれた教育環境とはいえません。
ラオスでは、近年、大学進学を希望する若者が急増しているそうです。仏教学校に入れば僧侶の生活と学びを両立しなければなりませんが、学費、生活費は基本的に無料(国の予算+寺院への寄付)なので、寺院に住みながらルアンパバンやビエンチャンの高校や大学に進学するということです。
(4) 国立博物館「ホンヒュン マッタヨンソンブン ソン」
ルアンパバン4か所目の視察先は、「国立博物館」でした。
ルアンパバンは、街全体がユネスコの世界遺産(1995年指定)です。その中にあって、街の中心部にあるこの「国立博物館」は世界遺産の象徴的な建物ともいえます。
この「国立博物館」は、フランス植民地時代、ルアンパバンが保護領として王政が認められていた当時、王家の宮殿として建造されたもので、1904年着工、1909年に完成した建物です。
伝統的なラオ様式と、19世紀にフランスで流行したボザール様式が融合した壮言な建物です。
シー・サワンウォン国王の銅像1909年当時の王、シー・サワンウォンとその家族の住居として建造された宮殿を、そのまま博物館として利用しています。王や王族が使用した家具や調度品、世界各地からの贈呈品や黄金仏などが展示されており、当時の王政の名残を見ることができます。また、銘板は取り外されていますが、庭園の一角にはシー・サワンウォン国王の銅像があります。
(ラオス観光情報局 http://www.dtac.jp/asia/laos/entry_177.php)
(5)メコン川を川船(連絡船)で移動
ラオスを流れる大河−メコン川は、ラオスの人々にとってまさに母なる川です。様々な恵みを与えるだけでなく、主要な海上交通の航路にもなっています。
「ルアンパバン国立博物館」から、バスで5分ほどの所に川船(連絡船)の船着き場−乗船場があります。次の視察場所まで、連絡船で移動しました。
しかし、船着き場といっても、竹と板で簡易的に作られたような桟橋で(大雨のときにしょっちゅう流されるので、こういうものになっているとか)、足元がふらつくと河に落ちてしまいそうでした。
船着き場に行く途中、土産物売りの民家が沢山並んでおり、ラオス名産の絹織物や、木工品、蛇やサソリを漬けたリキュールなども売られていました。
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