「ラオス人民民主共和国」視察報告 その1

県議会「民主党・県政クラブ県議団」は、急成長するASEAN諸国のうち、これまでタイ(前期)、カンボジア(前期)、ベトナム(前期)、ミャンマー(今期、2012年7月)を視察し、各国の政治情勢をはじめ、経済状況ならびに産業振興の状況を調査してきました。

そして、各国の教育・学術・文化をはじめ、民族性や対日心情(感情)などについても広く見聞してきました(報告書については会派として既報)。

今回は、2013年1月30日から2月1日にかけ、ラオスの主要2都市を訪問、ラオスの現状を視察してきました。以下のとおり、報告致します。

Ⅰ.視察要綱

1.日程

2013年1月29日出国 〜 2月1日帰国

2.行程

(1)1月29日 : 移動日

  • 福岡空港〜ベトナム「ハノイ空港」〜ラオス「ルアンパパン空港」)

(2)1月30日 : ルアンパバン視察

  • (ラオスの古都-観光都市、1995年に町全体がユネスコの世界遺産に登録)
  • ①マーケット「Talat Phosy Market」
  • ②孤児の学校「Deckkhampha Scool Luangprabang」 
  • ③仏教学校「ホンヒュン マッタヨンソンブン ソン」
  • (Honnghieng Mathayomsomboun Sone Scool)
  • ④「ルアンパバン国立博物館」
  • ⑤メコン川を川船(連絡船)で移動

(3)1月31日 : ルアンパバン視察(その後、移動。ビエンチャンへ)

  • ①僧侶の朝の托鉢
  • ②ルアンパバンの朝市
  • ③「ラオス国立農業大学」(Souphanouvong University)
  • ④寺院「Wat Xieng Thong」(VATXIENG THONGRAT SAVORAVIHANH)
  • : ビエンチャン視察(ラオスの首都)
  • ①「JICA Laos」
  • ②「凱旋門」

(4)2月1日 : ビエンチャン視察

  • ①「LAODI」
  • ②「ラオス全国商工会議所」
  • ③「ラオス計画投資省」

(5)2月2日  : 帰国(ラオス「ヴィエンチャン空港」〜ベトナム「ハノイ空港」〜福岡空港)

Ⅱ.ラオスの概要

Ⅱ.ラオスの概要から、Ⅶ.日本とラオスの二国間関係までは「日本国外務省ホームページ」(2012年4月現在)より引用しました(なお、一部Wikipediaより引用あり)。

1.国名

「ラオス人民民主共和国」(Lao People's Democratic Republic)
ラオスの国旗.pngラオスの国旗

2.国土/国情

ラオスの地図.png(1)国土
国土は236,800平方キロメートル。そのうちの約70%が高原や山岳地帯で、シェンクアン県のプービア(ビア山)は国内最高峰(2,820m)である。

(2)国情
面積は24万平方キロメートル。東南アジアの国では唯一海に面していない。
インドシナ半島の中心に位置し、中国、ミャンマー、タイ、カンボジア、ベトナムの5カ国と国境を接し、日本の本州ほどの広さを持つ内陸国である。
熱帯性モンスーン気候に属し、雨季(5月〜9月)乾季(10月〜4月)の2つのシーズンに分かれる。

3.人口

626万人(2010年、ラオス統計局)

4.首都

ビエンチャン

5.民族

主な人種はラオ族(全人口の約半数以上)。
モン族、ヤオ族、アカ族などを含む計49(68ともいわれている)の少数民族がある。
民族は大きく分けると次の3つになる。

  • 低地ラオ族(ラオルーム)ラオス人口の70%を占め、メコン川流域へ位置に住む。女性はシンを纏う。
  • 丘陵地ラオ族(ラオトゥン)ラオス人口の20%を占める。標高1,000m以上の高地に住む人々のこと。
  • 高地ラオ族(ラオスーン)ラオス人口の10%を占める。山岳地帯に住む。女性は膝丈位のスカートやズボンをはき、民族によっては、帽子をかぶっている。

6.言語

ラオス語

7.宗教

仏教

8.略史

1353年,ランサーン王国として統一。1899年フランスのインドシナ連邦に編入される。1949年仏連合の枠内での独立。1953年10月22日仏・ラオス条約により完全独立。
その後、内戦が繰返されたが、1973年2月「ラオスにおける平和の回復及び民族和解に関する協定」が成立。インドシナ情勢急変に伴って、1975年12月、「ラオス人民民主共和国」成立。

「ラオス」の歴史(Wikipediaより引用)

1.ラーンサーン王国
ラオスの歴史は、中国南西部(現在の雲南省中心)にあったナンチャオ王国(南詔国)の支配領域が南下し、この地に定住者が現れた時代に始まる。王国滅亡後の1353年に、ラーオ族による統一王朝ラーンサーン王国がファー・グム王により建国され、その勢力は現在のタイ北東部やカンボジア北部にまで及んだ。ラーンサーンとは「100万のゾウ」という意味である。昔、ゾウは戦の際に戦車のように使われていたため、この国名は国の強大さを示し近隣諸国を警戒させた。

しかし、18世紀にはヴィエンチャン王国・ルアンパバーン王国(英語版)・チャンパーサック王国の3国に分裂し、それぞれタイやカンボジアの影響下に置かれ、両国の争いに巻き込まれる形で戦乱が続いた。

2.フランス植民地支配
19世紀半ばにフランス人がインドシナ半島に進出し始めた頃には、ラオスの3国はタイの支配下にあったが、ラオスの王族はフランスの力を借りて隣国に対抗しようとし、1893年の仏泰戦争(英語版)の結果、フランスの保護国となり仏領インドシナ連邦に編入された。

第二次世界大戦中は日本がヴィシー政権との協定により占領した。その後1945年4月8日に日本の協力を受けて独立宣言したものの、戦後フランスが再び仏領インドシナ連邦を復活させようとしたことが原因で、1946年に第一次インドシナ戦争が勃発。1949年、フランス連合内の「ラオス王国」として名目上独立。

3.独立と内戦
1953年10月22日、フランス・ラオス条約により完全独立を達成した。独立後、ラオスでは右派、中立派、左派(パテート・ラーオ)によるラオス内戦が長期にわたり続いた。1973年、アメリカがベトナムから撤退、1974年三派連合によるラオス民族連合政府が成立したが、1975年南ベトナムのサイゴンが陥落すると、12月連合政府が王政の廃止を宣言、ラオス人民民主共和国を樹立した。

1977年12月、在ラオス日本大使館杉江清一書記官夫妻殺害事件が発生。反政府派による政治的犯行を示唆する発表がラオス国営放送から成された。
1980年、タイと国境紛争。1980年、ラオス人民革命党、中国共産党と関係断絶。
1986年、新経済政策(チンタナカンマイ)を導入。
1987年、タイと国境紛争、タイ空軍機1機が撃墜される。
1988年、ラオス人民革命党、中国共産党との関係改善。
1991年、憲法制定。ラオス人民革命党の一党独裁体制維持を確認。
1992年2月、タイと友好協力条約を結んだ。7月、ベトナムとともに ASEAN にオブザーバーとして参加した。11月21日、カイソーン・ポムウィハーン国家主席(ラオス人民民主共和国の初代最高指導者)死去。
1997年7月23日、東南アジア諸国連合(ASEAN)に加盟。
2007年6月、アメリカに亡命したミャオ族の元王国軍将軍とアメリカ軍退役少佐によるクーデター計画が発覚。関係者はアメリカ司法当局により局外中立違反で逮捕された。


A